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あ し あ と 。

生きてます。自由に。

食じゃなくていい!魂の栄養を摂る。【その二 自然】

 

「自然」から栄養を摂る、というのは大概の人が想像しやすいのではないだろうか。

 

イキイキとした『氣』というものは大都会より山の中にあり

その『氣』は人間に良く作用する、というのも

実際感じるかどうかは別として「そういうもんだ」と思えるのではないか。

 

 

わたしも不食のひとたちを知った時のイメージは

『仙人が山奥で霞を食って生きてる』だったし、

霞が所謂プラーナってやつで、自然界のエネルギーのことかなと漠然と思ってた。

 

なので、自分が不食を始めてから

今までは「なんとなく交流する、お話相手」だった自然の子たち

ー目に見える樹々草花から目に見えないちっさい存在までー

エネルギー交換する相手という意識になった。

 

そして、エネルギー交換出来るのは、そういう子たちだけじゃないというのもわかっていった。

 

山の中にいなくても

自然に囲まれていなくても

大都会に暮らしていても

 

太陽はそこにあり

月はそこにある。

 

火、風、土、水…

見渡せばそこに居る。

 

天気の良い日に太陽をじっと見つめる。手を合わせる。

※個人的には太陽凝視は万人にはオススメしません

 

月が綺麗な夜、眺めながら想いを馳せる。

 

流れる川に手をつけてみる。

そよぐ風が頬に触れる感触を味わう。

微生物モリモリの土に足をつっこむ。

燃え盛る炎が全てを浄化することを想像する。

。。。。。

今の札幌なら雪からすらパワーをもらえる。

 

雪は水の結晶。水はすべての情報を持っている。情報の塊である雪に身体を委ねてみる。

 

 

 

 

 

もっと言ってしまうと「ありとあらゆるものから栄養は摂れる」ということになってしまうのだけど、その結論で言ってしまうと今後続かないので(笑

 

今回は自然、ということで。

 

 

具体的に出来ることで言えば

 

 

やっぱり山の中に入る、樹々に囲まれるなんてのは最高。

例え雪の中でも。

青々とした夏の樹々は元気そうで

雪に埋もれた樹々は眠っていそう

一見、そう見えるけれども!!

まさに、今!

2月の樹々達は来るべく春に向かって、まさに今、大地から水分と栄養を根から吸い取り、自分の葉に蕾に蓄えている、パワーに満ち満ちているところ。

これから咲くぞー!ヤル気満々状態。

そのパワーをいただく。

 

桜の木はそのへんの公園にもあると思うので、

想いっきり幹を抱きしめ、そっと蕾に触れてみると良いと思う。

「頑張ってね!」「綺麗に咲くの楽しみにしてるね!」と声をかけるのを忘れずに。

あなたのその声が想いが、また彼らの栄養となり届き元気に生きて行ける。

そう、これが循環。

 

 

 

お花屋さんからお花を買って来る。

自然の中の子たちよりもずっと繊細だけれども、その癒しパワーはデカい!!!!

循環というよりも、「見返りを求めない献身的な愛」。

どんなにマメに手入れをしても、この子たちはいずれ枯れてゆく命。

だからこそのこの愛を生活に取り入れる。

不食生活をしてから、我が家では常にお花を飾るようにしている。

おはよう、おやすみ、今日も可愛いね、いつもありがとう…

声をかけてそっと触れる。

彼らも我々人間の役に立っていることが喜びなのだ。

無償の愛、お花にはそれを感じる。

 

※もちろん観葉植物等でも対応は同じ

 

 

 

そして

最近「これだ!!」と発見したのが「温泉」。

温泉は最高の魂の御馳走!!

単純に、肉体の癒しとしても効果があるし

入ってて「ああぁぁぁ〜〜〜〜気持ええ〜〜〜」と声が出てしまう精神的癒し

なんといっても、水、火、土のパワーがいっぺんにいただけるんですな。

そういう意味でも源泉掛け流しの温泉が一番だけれども

薪で湯沸かししている銭湯なんかも素晴らしいね。

塩素たっぷりのスパ系は、「Joy」の意味では良いかもしれないけど

パワーはいただけませんな。

 

 

 

 

 

余談。

不食を始めてすぐのころ、「食べないでお風呂なんて…危なくね!?」と不安だった。

それでなくても貧血気味なわたくし

ぶっ倒れたらどーするよ、と、お腹も空いてないのに「不安だから」食べてから、自宅のお風呂に入った。(何を食べたかは忘れた)

 

案の定ふらっとするわたし。

「当たり前だ、自分でそうなるかも、って思ったんだから、なるに決まってる」とビシッと突っ込むチビ雪。

不安が現実を作った良い(悪い?)例。

 

その後、お風呂でふらつくことは一度も無し。

24時間食べないでサウナも水風呂入もバッシャバシャである。

 

 

 

 

 

閑話休題

 

 

不食生活は感覚が繊細になるので、この、栄養の源を「感じやすくなる」。

「あ、この山が元気が良いな」とか

「この樹のパワーは凄いな」とか

「今日のお花は機嫌が良いな」とか

 

感じるとお返しもしやすいので循環もまわりやすい。

 

わたしにとっての不食生活の最大のメリットはこの「循環がスムーズ」、

だろうな。

 

 

 

 

 

必要なのは『愛』!!

「この今の想い、残しておかねば!!!!」と思ったので

食後にお口をもぐもぐさせながら書いています。

(お行儀悪いですね。良いこのみんなはちゃんとお口を空っぽにして「ごちそうさま」しましょうね。)

 

珍しく、夜まで待てず「おなかすいたーごはんー」になったので

これまた珍しくしっかり一食作った。

ま、ほぼ残り物だけど。

 

発芽玄米のお粥

お麩と春菊の粕汁(粕漬けまわりの粕を使用)

鱈の粕漬け

ゴーヤともやしとほうれん草のナムル

蒟蒻と仙台麩の煮物

 

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こんなに食べれるかなーと思いつつ

まだこんな時間(15時)だから今しっかり食べておけば夜もいらないだろうともぐもぐ開始。

 

この鱈の粕漬け

先日、母を連れて温泉に行って来たのだが(温泉は最高の魂のごちそう!それはまた別記事で。)その帰りに「持って行きなさい」と持たされたもの。

 

母親というのは何故にあんなに『食べさせたがる生きもの』なのだろうか。

母親の役目とはそれに尽きる、からか。

 

蚕を飼っていたときに感じた、

あの与えた餌をスゴイ勢いで喜んで食べる姿、そしてどんどん大きくなるあの達成感…

あのときわたしは蚕に「もっと食べなさい!!」状態だった。

あれが母親の『食べさせたい』に繋がるのか…

 

まぁ、とにかく。

当然、母に不食のことなど伝えるつもりも無いので

相変わらず「ちゃんと食べてるのか」「これ食べなさい」「(断ると)じゃあ持って行って食べなさい」…食え食えの連続である。

 

持って帰る分には、よっぽど「そんなもん食わんわ…」というもの以外は夫に食べさせればいいだけなので、遠慮無くいただく。

 

粕漬けはしっかり二尾入っていたが、まぁ弁当に詰めても良いし…

 

と思っていたのだけど

夫に朝焼いたときにチビ雪が「わたしも食べたい!」と言ったので

ひさびさの動物性、いきました。

 

 

 

そして

 

感じた

 

ひさびさの「魂の満足」。

 

 

 

 

 

「あぁぁぁぁぁ 美味しいぃぃぃぃぃぃぃぃ(涙)」

 

 

もう、眼を閉じてうっとりしちゃったよね。

 

ずどーーーーーーーんと魂に響く感じ。

 

なんだろう、これ。

 

チビ雪が泣いてる。

わたしはわけわからず涙がぽろり。

 

 

「うん、もう満足したね」

ふたりとも納得で、こんな状態で箸を置いた。

 

 

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 注:残りはスタッフ(夫)が美味しくいただきます。

 

 

わたしたち夫婦は味の好みが全く一緒なので、美味しいも不味いも同じく感じる。

 

夫が今朝この粕漬けを食べたとき、一言の感想も無かった。

割と食事について感想を言うひとなので

「何も言わないなんて珍しいな。母が少ししょっぱいかも、と言っていたから…しょっぱかったのかな」と思っていた。

 

長い出張から帰って来た後だったせいか、ひととおり食べ

「やっぱり雪ちゃんの作るごはんが一番美味しいーーー!!」とたいそう喜んでいた。

 

 

 

 

夫は、母の粕漬けより、わたしの作ったもののほうが美味しいと言った。

わたしは、他のなにより、母の粕漬けが美味しかった。

 

同じ味覚を持つ二人の違う感想。

 

何が違うか。

 

 

母は子供達のために粕漬けを漬けた。

わたしは「お母さんの作ったごはん」が食べたかった。

 

わたしは夫のために料理を作る。

夫はどんなものより、わたしの料理が一番だと言う。

 

 

そこにあるのは、やっぱり「愛」でしかない。

 

作るひとと食べるひとの間で料理を通して愛が循環しているのだ。

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

 

札幌に初めて某ファミレスがオープンしたとき、友人たちと食べに行った。

スピリチュアルな仕事はしてたけど、食に対してはそれほど興味無かった頃。

興味が無いとはいえファミレスが美味しいとも思っていないので、単なる興味、どんなもんか食べに行ってみた。

 

そのときの衝撃は忘れない。

 

「…これ、食べ物ですか????」

 

豊富なメニュー、お手頃な価格、若者には受けそうな食べ物。

でも、あまりにも『スッカラカン』なそのモノは、わたしの身体は全く受け付けなかった。

 

この空っぽ加減、食材の善し悪し云々だけじゃない。

ファミレスの食材なんてどこもだいたい一緒だ。

食材の空っぽに加えて…これは…作り手の愛情の無さだ。

 

オープン時にちょっと習っただけで厨房に立っているバイトが「めんどくせぇなぁ」と言いながら料理を作っている光景が眼に浮かんだ。

 

 

 

こんな料理を、周りの若者は「美味しい」と言って食べてるのか?

見た目が満足ならそれで良いのか…?

 

 

 

愕然とした。

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

 

Facebookにこう投稿したのは、不食を始めて10日後のこと。

不食を始めたことは公言してません)

 

 

 

「食べること」が、わたしの中で気持ち的にも行為的にも少なくなっています。

それでも、いや、だからこそ
身体に入ってくるその少しのものが何なのか、凄く重要に感じます。 
味覚がかなり敏感になって来ていて、さきほどのビアホールの料理はほぼ受け付けられませんでした。
最近とくに感じるのは肉がどーのとか、化学調味料がどーのとか、ジャンクがどーのとか、いうより「誰がどういう気持ちで作っているか」、それは素材であれ料理であれ、そこが一番わたしのなかでひっかかるみたいです。

高慢な特別意識で作られた無農薬野菜やオーガニック料理より、慣行野菜で化学調味料が使われていようがスッキリと生きている人が作ったもののほうが、わたしには合う、みたいな。

 

 

『高慢な特別意識で作られた無農薬野菜やオーガニック料理…』

 

無農薬農家としてとても人気がある某氏

わたしはそこの野菜を美味しいと思ったことが無いし、だいたい顔が嫌いだった。

共通の友人も多いのに何故か縁が無かった彼は

実は人間としてはめちゃくちゃだった、という話を最近聞いた。

 

「あんな人が作ってる野菜を崇めて食べてる人の氣が知れないよ!!売れてる理由はブランド力だけだよ!!」と教えてくれた友人が怒っていた。

 

人の生き方を批判をするつもりは無いけれど

やっぱり作り手の想いって、必ず作ったものに出る。

それが野菜でも、料理でも。

 

彼が育てた野菜に「愛」は入っているのだろうか?

 

他のひとには「安心安全で美味しい野菜♡」なのかもしれないけれど

 

愛が入っていないものは魂には響かない、から

不食のわたしには必要無いもの」。

 

 

 

 

わたしが作る糸や布にだって

わたしの想いが乗る。

 

 

作り手の乗せた想いが、受けたひとの何かの糧(栄養や感動、見えない効果でも)となりその喜びがまた作り手に、

そしてその材料を提供してくれている「地球」に還って行く

 

そんな「愛の循環」が出来たら最高ではないか。

 

 

 

だから、お願い。

 

作るひとはどうか受け取るひとに与える「愛」を乗せて欲しい。

 

受け取るひとは作り手が乗せた「愛」をしっかり感じて欲しい。

 

ただ空腹を満たすだけに適当に食べる、なんて

(自分の)かみさまに失礼なことは

出来るだけ避けて欲しい。

 

 

愛が循環する食べ物を選んで欲しい。

 

 

 

食じゃなくていい!魂の栄養を摂る。その一【運動】

食べる以外でからだといのちをつくる。

魂の栄養を摂る方法、その一は「運動」。

 

前にも書いたけれど、わたしは生まれた時から身体が弱く、医者に長生きしないと言われていた。

白血病に近い状態だったらしく、とにかく出血は御法度。

なので興奮する、怪我をする、=出血する、鼻血が出るなどの可能性がある運動は禁じられていた。

(興奮するという理由でオロナミンC的なものやガラナさえ飲ませてもらえなかった…)

 

ある程度成長して体力もついて人並みの生活は出来るようになったけれど

今度は喘息との闘いで、これまた激しい運動は無理。

わたくし、学校の体育祭などの運動行事まともに出たことありません。。。

 

克服したくて水泳を習ったりしたけど、喘息だけは良くならなかった。

 

そもそもこの病弱な身体。

んもーーーーーーーとにかくコンプレックス。

病弱コンプレックス。

他人が簡単に出来ることがわたしには出来ない。

運動はもちろんだけれど、普段の生活でも、少しでも無理すると必ず寝込む。

白血病に近い、という状態だからなのかとにかく疲れやすい。体力が無い。

1日無理すると3日寝込む。

街中に出かけると疲れで寝込む。

旅行なんかで浮かれたあとは、酷いめに合う。

 

甥っ子が小学生だった頃(わたしが高校生くらいだったかな)、

「どうして雪ちゃんはいつも出かけて帰って来ると寝ちゃって出て来ないの?」

と言われて凄くショックだった。というかこの言葉はトラウマとなった。

 

好きで寝てるわけじゃねーーーーーーーーーーーーわ!!!!!!(号泣)

 

虚弱体質なんとかしてくれーーーーーーーーーーー

 

とにかく、この身体の弱さは最近まで最大のコンプレックスだった。

 

 

 

それがですよ

 

不食を始める直前くらいに何故か急に「走りたい!!!!!」欲が出て来たのです。

 

喘息も良くなってないのに。

そもそも小走り以上に走ったことなんか、ほとんど無いくせに。

 

でも走れる気がしたのよね。なんとなく。

 

で、マラソン好きの夫にすぐ相談。

わたしが「走りたい!」だなんて…今まで「運動する意味わかんないw」とか言ってたくせに…

当然驚いてたけど嬉しそう。

一緒に走ってくれた。

(そういや発熱状態での大神神社登山で最初から最後まで肩を貸してくれたっけなぁ。しみじみ良い夫だ)

 

「ゆっくりゆっくり、とにかくゆっくりね」

 

 生まれて初めての「走りたい欲」が爆発して、今すぐにでもダッシュしたいんだけど(笑

 

様子を見ながら、走る。

大好きな川縁を走る。

 

 キモチイイー!

流れて行く景色を見ながら、世界の音を聴きながら、風を感じながら、身体を動かす。

なんて気持が良いのだろう。

 

 そうして新しい世界が、わたしの中に出来たのです。

 

しかしここは北海道。

気がついたら雪景色。

せっかく走るのが楽しくなったのになぁ。

 

そうこうしているうちに始まった「不食生活」。

 

どうなるかもわからず「やる」って決めた不食生活。

わたしが食べなくなったら…からだはどうなるんだろう。

母に刷り込まれた「食べないと身体が保たない」呪縛はちゃんととけてるのか。

不安は全く無かったけど、どうなるかも全く想像つかなかった。

 

本等には「不食はパワーがみなぎる」的なことが書いてあるけど

このキョジャッキーな自分がそうなる姿が、全く想像つかない。

 

が、意外にも

不食を始めたら、余計に走りたくなった。

 

 不食ハイ

でも書いたけど、ほんとに肚からパワーがあふれて来るので

もう、それこそダッシュしてどっかに登って

「エイドリア〜〜〜〜〜〜〜ン!!!!!」とか叫びたいくらいのカンジ。

 

なので、近所の市営の体育館に通うことにした。

ランニングデッキもあるし、トレーニング室もあるので筋トレも出来る。

 なんせ、気力は溢れているものの、肝心の肉体のほうは45年間走る為の筋肉を着けて来ていないので足がついてこなくてコケるのだ…(´Д` )

 

体育館は徒歩20分ほど。

車で行けば5分だけど、運動目的のところに車で行くって…「はぁ!?(´Д` )」

なので往復40分歩く。

20〜30分走って、1時間程マシンで筋トレ。

そしてこの季節、行く前、あるいは帰って来てから雪かき。

 

 かなりの運動量である。(※当社比)

 

そして全然苦痛じゃない。

むしろ「まだまだー!!!!」なくらい。

 

雪かきなんて去年まで「当然夫がやること」と思ってて

どうしてもの時以外は夫が居ないときはしない。

「冬に長期出張入れるんじゃねーよ!!!!」くらい思ってた。

 

それが今では夫の手を借りずとも綺麗に出来る。

「雪かきは丹田を鍛えるのに良いぞ!!」などと言い出す始末。

 

これだけでも不食万歳である。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

さて、不食をすると運動出来る、したくなる、のはわかっていただけたと思うが

 

「運動をすると食べなくて良いとは、これ如何に」。

 

えっと、一番端的に一言で言うと

不食における運動って

禊における振魂と同じじゃないかなって思ったのです。

 

って、禊をしないひとにはまったくわからない説明ですが(笑

 

禊をする前は、いくつか作法というか所作がありまして

振り魂はそのひとつ。

 

振魂(ふりたま)
振魂は両手を臍下前方に右手を上にして掌を軽く組合はせ、連続して上下に振り動かす。組み合わせる掌中には空間を開けて、掌中にある自分の魂(ミタマ)を振り動かす要領で行う)を行ふ。
振魂の間は「祓戸大神」を連唱す。

 

振魂での、丹田に『氣』『魂そのもの』を集めて揺さぶり増大させていく感じが、

不食で走ったときにパワーがみなぎる感じに似ている気がする。

 

身体を動かすことによって魂を震わせて、自身の神であるパワー、

限度のないエネルギーがどんどん出て来る。

じっとしているより、肉体を動かしたほうがよりそのエネルギーは「内側から」溢れ出て来る。

どんどん、どんどん、限りなく、溢れでてくる。

 

このエネルギーの質といったら食べ物から得る「栄養」的なものとは比べ物にならないくらい純粋で美しく、幸福感をもたらすと同時に、即肉体に作用する。

肉体そのものに、この純粋で美しいエネルギーが満ち満ちていくのだから、他の栄養素など何も要らないのだ。

 

これは…このエネルギーは…

なんなんだろうな。

やっぱ「」なんだろうな。

 

 

少々話はそれるけれど

わたしが体験した神秘体験のひとつにこの「愛」そのものになった、というのがあって。

普通に地下歩道を歩いているときそれは急に来た。

大好きなひとに贈るプレゼントを考えながら歩いていてウキウキしていたのは覚えている。

急に

自分の肉体が無くなって、目の前の全ても無くなって

わたしはわたしじゃなくなってひとつのエネルギー体、といってもカタチもなく永遠に広がるもの凄い圧倒的パワーの「存在」だけになった。

ほんとうに一瞬の出来事だったけれど。

あの圧倒的パワーとエネルギーは「愛」そのものだった。

「神様」でも良いし「宇宙」でも良いけどそのときは「愛」が一番しっくり来た。

「あぁ、わたしは愛そのものなんだ」、ってそのとき初めて体感した。

 

この「愛」に繋がれるかどうか、

この「愛」を魂の栄養と出来るかどうか、

それもまた不食への大切なポイントな気がする。

 

運動をすること=魂を揺さぶること=自身の愛を溢れ出すこと=食べなくて良い

 

↑そんな簡単なことじゃ無いかもしれないけど、簡潔に書くとこんな感じ?

 

もちろん、自分自身が運動することを楽しいと思わなければ絶対無理というか無駄だけれど…

 

不食をするために何かを嫌々するとか、我慢するというのは本末転倒である)

 

 

 

 

自身のことも書いたので長くなりました。

伝わるのか、これ。

 

自身の記録のためであって

べつに伝えるために書いてるわけじゃないから、いいかw

 

食じゃなくていい!魂の栄養を摂る。

食べない方が、調子いいー!

食べない方が、全然元気ー!

 

何故、そんなことが有り得るのか?

 

食べない方が調子良い、ってのは今までの投稿でも少し触れてきたけれども

 

食べない=元気いっぱい!ってのが、不食を信じられないひとにとって、多分一番不思議なんじゃないかなと。

 

わたしがそう思ってたから。

 

食べなくても生命を維持出来るのは、なんとなーく理解出来る。

仙人みたいな、超越した人なら食べなくても死なないんじゃないか。

 

ただそれはあくまでも「死なない」であって、

 

元気はつらつーーーーーー!!

 

というイメージでは、無い。

 

不食の本にも、食べない人が、食べる人よりいかに健康的で溌剌でパワーがみなぎっているか、書いてある。

 

何故なのだ…

 

 

 

 

その疑問も、

身を以て知ることになるわけです。

 

 

 

まずは、もちろん「食べない」=「溌剌」ではない、イコールではないということ。

 

そこがイコールであれば、絶食でも断食でもダイエットでも、元気ハツラツになるはず。

 

でも、そういうのは普通続ければやつれていくよね。

過激なダイエットなんて(わたしも経験あるが)心身共にヨレヨレになって、ちょっと動くのもしんどくなる。

 

そういうものと不食の何が違うかというと

 

「食べなくても大丈夫」という確固たる『意識』はもちろん

 

「食べるもの以外で、身体を命をつくっていく」ということ。

 

それは、実際自分が不食(へ進むこと)を始めてから、どんどんわかっていった。

今まで特に意識せず、素通りしてきてしまったことが

いかに栄養素として大切か、日々の暮らしの中で気付いていった。

 

それは驚きの連続で

 

わたしたちはこんなに完璧なもの(栄養)を与えられているのに

それに全く気付かず

身体を汚し思考を汚し地球を汚し

とんでもなく無駄で愚かなことをしているのだ、と

 

気付く旅でもあった。

 

これから、そのあたりを続けて投稿します。

 

(結局、当面は不食ブログになりそうだwwwwww)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

便秘と腸と思考と

不食ブログにはしないぞ、と言いつつ今日も不食ネタ。

 

いやー、だって毎日もの凄い気付きなんだもの。

いくらでもあるのよ、ネタが。

毎日毎日書いても、どんどん新しい発見がある。

今でも下書きだけで数十件。

もう、ここは不食ブログでも良いんじゃないかって気がしてくるくらい(笑

 

さて、数十件ある下書きを差し置いて書く今日の気付き。

マジチビ雪すげーっす。

 

 

1月は何やかんやと飲み会が多い。

ひとりでいるほとんど食べなくて(微食で)良くなって来ているものの

やはり目の前にごちそうが並ぶと手が出てしまう。

ましてやお酒が入ると「なんとなーく」口に運んでしまう。

 

連日の飲み会の中でも「もう食べなくて良いよー!」っていうチビ雪の声を無視して

お仕置き(翌日超具合悪い)された日もあったから、少し気をつけるようにした。

 

でも、だから、

「食べないようにしなくちゃ」って思ってセーブした飲み会の翌日、やっぱり具合悪かった。

 

なんでじゃ!我慢したやんけ!!!!(怒)と思いつつ

なんと翌日も飲み会。

 

もちろんセーブしようと思ったけど

「食べなよ」とチビ雪。

 

「はぁぁぁん!?セーブしても具合悪いってのに、食えってか!

 しかもいつもなら食べるなって怒るくせに何を今さらー!!」

 

かなりムッとするわたし。

 

「今日は食べたら意味がわかる。

 そもそも、我慢しないって自分で言ってたじゃん。

 今日も我慢したら、リバウンドするよ。

 不食なんかもうやらないーってあんたキレるよ、きっと」

 

 

確かに。我慢したよ。我慢して具合悪いんだから我慢するだけ無駄な気がしてるよ。

 

てなわけで、その日の飲み会はまーったく我慢もセーブもせず、好きなだけ食べた。

といっても自宅での会合だったので自分で作ったカラダに優しい食べ物だったし、

今の体で「好きなだけ」と言っても食べられる量はたかだか知れている。

 

久々に罪悪感無く好きなだけ食べて、寝た。

 

 

 

翌日、全然具合悪く無かった。

 

 

セーブして食べて調子悪かったのは罪悪感のせい?

 

「我慢はしない」と言いつつ、結局「食べちゃダメー!」ってどこかで押さえ付けてた?

 

チビ雪の「食べちゃダメ!」と「食べなよ」は、なんなの?

どっちなの?

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

(ここから大便のはなしです)

 

 

 

 

食べないと、出ない。

 

当たり前のこと。

 

 

 

快便だったわたしが不食生活を始めてさすがに出なくなった。

せいぜい、3日に一回くらい。

しかも出にくい。

便意はあるものの、3日も滞在している大くんは固くなっていて、いきんでもなかなか顔を出してくれない。

 

 

 

何十年かぶりの「便秘」体験。(そもそも子供〜若い頃は便秘がちだった)

 

 

 

 

どうしたもんか…

 

 

不食の名付け親山田さんは「腸洗浄」をすすめている。

わたしも洗浄機を購入しようと思っていた。

でも、注文することなくなんとなく今まで来てしまった。

 

一日一杯の青汁だけで生きている森さんは「スイマグ」というものをおすすめしていた。

水酸化マグネシウムの略と思われるその商品は緩下剤で、副作用も無く穏やかに便通がよくなるらしい。

それも調べたらそのへんの薬局には売っておらず札幌では中心部にある薬局一ヶ所のみの取り扱い、あとは通販ということらしい。

 

 

ーーーーーーーーーーー

 

 

気持ち良く食べ過ぎた翌日は土曜日。

 

便意はあるものの出ないのは苦しい。

今すぐなんとかしてくれー

 

スイマグも洗浄機も、今すぐにはどうにもならない。。。。。

 

 

 

 

チビ雪の指導は「珈琲飲め」。

 

 

 

たしかに、今までもコーヒー飲んだら出た。

わたしはコーヒーは自分からは飲むことはまず無い。

夫が欲しがるから、お客様が来たから、外で出されて、なんとなく一緒に飲むことはあっても

自分の為に淹れることは全く無いのだけど

 

チビ雪がコーヒーっていうから、淹れて、飲んだ。

 

 

そしたら、出た。

 

 

 

すっきりした。

 

 

 

 

 

っていうかさ!!!!!

 

 

 

 

 

 

すごいの、このすっきり感。

 

身体だけじゃないのよ。

 

 

 

 

全身の爽快感、アタマのクリア加減がスゴイの。

 

 

 

「ウンコ出たくらいでこんなに変わる?」ってくらい違うの。

 

 

 

で、いろいろ気付いちゃった。

 

 

 

まず、チビ雪が「食べな」って言ったのはウンコを出すためだよね。

食べないと出ないから。

コーヒーもそう。

 

 

で、この感じを実感させるためだよね。

 

食べて、腹にたまって、出す。

そして感じる爽快感。

 

 

 

身体だけじゃなくて、頭(思考)も。

 

 

チビ雪の言ってることが矛盾してても

それはチビ雪(かみさま)の世界は時間の繋がりが無いから

人間みたいな「こないだはこう言ったから必ず今日もこう」ということは無い。

今瞬間瞬間に必要なアドバイスしか来ない。

それをわたしが勝手に「こないだこう言ったじゃん!矛盾してる!」と解釈して怒ってるだけ(トホホ…)

 

 

 

 

 

ハッキリとわかったのは

腸が汚れていると、思考も汚れるってこと。

 

 

 

 

 食べ過ぎて具合悪いとき、身体が怠いのはもちろんのこと

頭が働かなくてぼや〜んとしてて、それがとても心地悪かった。

瞑想も、読書も出来なかった。

ちゃんと本質と繋がれていない感じがして嫌だった。

 

思考の汚れってのは別にネガティブ思考になるってわけじゃなくて

(いや、もしかしたらそれもあるかもしれない)

考えなくても良いことをいつまでも考えちゃう、モヤモヤしちゃう

とかで

食べていないときのクリアさ加減にくらべると

圧倒的に「ボケている」感じ。

 

 

 

 

 

 

便(食べ物のカス)が、腸に滞って

それが身体も思考も重くしている。

 

 

わたしの悪い視覚で例えるなら、

腸が空っぽ(食べていない)のがメガネをかけた状態(視界クリア〜!)

便秘しているとき(食べ物が入ってる状態)が裸眼(何も見えない)

という感じ?

 

ん?わかりにくいかwww

 

まぁ、腸の状態が綺麗だと、思考もスッキリしているよ、

これが最大の気付きだったわけです。

 

そして、「腸は思考する」と

何かで聞いたことがあったけど

(またそれとは意味が違うだろうけど)

腸の状態と自分の思考は直結しているな、と実感した次第。

 

なので

 

腸は綺麗にしていたほうが良い。

これは、絶対的に自分の中で納得した。

 

そういう意味で不食の方々が腸洗浄や下剤をすすめるのかも。

 

 

というわけで

今日もまた「不食」の凄さに感動しているわたしでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

最初の原料から作る。

ちっちゃい雪ちゃんに「不食のことをTwitterだけじゃなくブログに書け」と言われたのもあり

しょっぱなから不食のことばかり書いてしまいましたが

不食ブログにするつもりはありませんのことよ!

 

そもそもブログの引越しをしようと思ったのは使っていたところが画像のアップロードが1枚1枚選択が必要でそれがもーーーーーーーーーーー面倒すぎるからで

ずばっと一括アップロードできるところを探していたのです。

旅行記などは写真が殆どなので。

 

というわけで本職(?)の糸布づくりの話題。

 

そもそもわたしは「自分のものは自分で作る、最初の原料から」を生きる仕事としていて

今は衣類(身に着けるもの)を作り上げることに夢中なのです。

 

衣類は何で出来ているか。布です。

では布は何で出来ているか。糸です。

では糸は何で出来ているか。石油という答えは今は無視しますよ。

自然繊維となると、植物か、動物です。

 

衣類の最初の原料から自分の手で、となると

最初の原料である植物をあるいは動物を

自分で栽培、飼育する

または

自生のものを採取する

ということになります。

 

動物、となると

まずは羊(ウール)や山羊(アンゴラ、モヘア)、アルパカやウサギなどが出て来ると思いますが…わたしはなんといっても

蚕!!!!!!シルク一点貼りです。

蚕から、絹をとる。

わたしの蚕愛は語ると大変なことになりますので、また別の機会に。

今のところ、羊や山羊を飼育する予定はありません(あまり興味が無い)

 

植物でいえば

わたしの一番お気に入りは「麻」、

麻といってもみなさんが一番に思い浮かべるアサは亜麻(リネン)でしょうが

わたしの言っている麻は大麻ヘンプ)です。

大麻の事を語り出すとこれまたがキリが無いので

こちらもまた別の機会にするとして。

大麻は今のところ栽培も採取も違法ですので、農家さんから買った繊維を使って糸にしています。

亜麻は栽培しています。苧麻はまだ未体験。

 

麻の他にも綿(コットン)、葛、藤、しな、芭蕉、楮等々

日本は自然布の宝庫。

世界に眼を向ければまだまだ数えきれないほどあるし
(わたしの敬愛する故横井庄一さんが服を作った植物はハイビスカス!)

北海道でいえばアイヌが利用して来たオヒョウ、イラクサ、ガマ、そしてツルウメモドキなどがあります。

 

今まで自分で採取して糸を作ったのは

葛とオヒョウとイラクサ

とはいえオヒョウは糸として成立してないなぁ。

 

絹は蚕を飼って繭をとる、までは出来てますがまだ糸にしてません。

これは現在、タイミング待ち。

 

このへんの、糸づくりのことも今後はしっかりとブログに書き残しておきたいと思います。

 

 

 

 

チビ雪と不食

さて

 

ちっちゃい雪ちゃんと不食について。

 

 

 

不食にしよう、と思ったときに当然すぐにチビ雪に相談した。

 

不食、やろうかな」

 

そのときのチビ雪の反応は

 

「やったーーーーーーーーー!!

 もう、無理して食べなくて良いんだーーーーーーーー!!」

 

だった。

 

 

 

そして、思い出した。

 

 

わたしは小さい頃、医者に長生き出来ないだろうと言われていたほど病弱で

食も細かった。

 

所謂「普通の」感覚な母親は

「たくさん食べなさい」

「食べないと丈夫にならない」

「肉を食べないと元気が出ない」

という人で、とにかくわたしに食べさせようとした。

 

わたしは食べたく無かった。

 

でも無理矢理食べさせられた。

 

当然美味しいと思うわけもなく、嫌々仕方なく食べていると

 

「あんたはほんとうに不味そうにごはんを食べる!」といって怒られた。

 

そしてまたごはんを食べるのが嫌になる、という悪循環だった。

 

せっかく作った食事を不味そうに、嫌々食べられるというのは心底悲しいものだというのは今になって良くわかるが

 

わたしは「食べたく無い」、

 

それだけだった。

 

 

「もう食べなくていいんだ…」

 

チビ雪は心底安心したようだった。

 

 

 

そして

 

「食べたく無いなら食べない」

「食べたくなったら食べる」というわたしにとって究極の自由を手に入れて

新しい食生活がスタートした。

 

 

 

スタートして3週間程経ったある休日

 

夫と家でお蕎麦を食べていた。

年末に年越し蕎麦として友人やみんなで食べようと用意していたのだけど

酔っぱらってすっかり忘れていて

「そろそろ食べちゃわないと」と茹でた、はいいが

少食になっていた二人にとってそれは結構な量で

「食べきれるかなぁ」と言いながらすすっていた。

 

最初は美味しく食べていたのだけど、さすがに途中できつくなってきた。

 

今はもちろんそこまで食べる事は無いけど

そのときはまだ「残したらもったいない」という思いがあり…

 

蕎麦猪口に蕎麦をつけた瞬間「…お腹苦しい!」と自分でも思ったけど

もうつゆにつけてしまったし、この一口だけ食べよう、と口に持って行こうとしたとき

 

 

チビ雪大激怒。

 

 

「お腹が苦しいってわかってるのにどうした食べるの!?

 からだがもういっぱい、って言ってるんだから、無理して食べるな!!!!!!」

 

 

ひゃ〜〜〜〜〜( ;´Д`)

 

すすすすすすすいません!!

 

 

素直に箸を置くわたし。

 

まだまだアタマで食べていたわたし。

 

カラダの声を無視していたわたし。

 

この一件(チビ雪大激怒)以来、しっかり自分のカラダに聞きながら食べるようになった。

 

満腹じゃなくて満足、

 

身体に入れて良い量と

チビ雪が満足する質をしっかり見極めて食べる。

 

チビ雪は、本当に美味しいと思うものを食べると、

一口で「うわぁ〜これ美味しいねぇ〜幸せだねぇ〜もうこれだけでいいねぇ〜」と言うのでもうそれ以上は食べない。

 

おざなりに、適当なモノで空腹を満たす、なんてことは許されないので

常にチビ雪に「食べるなら何が良い?」と聞く事にしている。

 

チビ雪は不食に関して、たくさんのアドバイスをくれる。

 

食べないと感覚が繊細になるので、チビ雪の声も良く聞こえるようになった。

 

不食を目指す生活を始めてから、チビ雪とよりいっそう仲良くなった気がする。

 

 

それはそれは、好循環なのだ。