必要なのは『愛』!!
「この今の想い、残しておかねば!!!!」と思ったので
食後にお口をもぐもぐさせながら書いています。
(お行儀悪いですね。良いこのみんなはちゃんとお口を空っぽにして「ごちそうさま」しましょうね。)
珍しく、夜まで待てず「おなかすいたーごはんー」になったので
これまた珍しくしっかり一食作った。
ま、ほぼ残り物だけど。
発芽玄米のお粥
お麩と春菊の粕汁(粕漬けまわりの粕を使用)
鱈の粕漬け
ゴーヤともやしとほうれん草のナムル
蒟蒻と仙台麩の煮物
こんなに食べれるかなーと思いつつ
まだこんな時間(15時)だから今しっかり食べておけば夜もいらないだろうともぐもぐ開始。
この鱈の粕漬け。
先日、母を連れて温泉に行って来たのだが(温泉は最高の魂のごちそう!それはまた別記事で。)その帰りに「持って行きなさい」と持たされたもの。
母親というのは何故にあんなに『食べさせたがる生きもの』なのだろうか。
母親の役目とはそれに尽きる、からか。
蚕を飼っていたときに感じた、
あの与えた餌をスゴイ勢いで喜んで食べる姿、そしてどんどん大きくなるあの達成感…
あのときわたしは蚕に「もっと食べなさい!!」状態だった。
あれが母親の『食べさせたい』に繋がるのか…
まぁ、とにかく。
当然、母に不食のことなど伝えるつもりも無いので
相変わらず「ちゃんと食べてるのか」「これ食べなさい」「(断ると)じゃあ持って行って食べなさい」…食え食えの連続である。
持って帰る分には、よっぽど「そんなもん食わんわ…」というもの以外は夫に食べさせればいいだけなので、遠慮無くいただく。
粕漬けはしっかり二尾入っていたが、まぁ弁当に詰めても良いし…
と思っていたのだけど
夫に朝焼いたときにチビ雪が「わたしも食べたい!」と言ったので
ひさびさの動物性、いきました。
そして
感じた
ひさびさの「魂の満足」。
「あぁぁぁぁぁ 美味しいぃぃぃぃぃぃぃぃ(涙)」
もう、眼を閉じてうっとりしちゃったよね。
ずどーーーーーーーんと魂に響く感じ。
なんだろう、これ。
チビ雪が泣いてる。
わたしはわけわからず涙がぽろり。
「うん、もう満足したね」
ふたりとも納得で、こんな状態で箸を置いた。
注:残りはスタッフ(夫)が美味しくいただきます。
わたしたち夫婦は味の好みが全く一緒なので、美味しいも不味いも同じく感じる。
夫が今朝この粕漬けを食べたとき、一言の感想も無かった。
割と食事について感想を言うひとなので
「何も言わないなんて珍しいな。母が少ししょっぱいかも、と言っていたから…しょっぱかったのかな」と思っていた。
長い出張から帰って来た後だったせいか、ひととおり食べ
「やっぱり雪ちゃんの作るごはんが一番美味しいーーー!!」とたいそう喜んでいた。
夫は、母の粕漬けより、わたしの作ったもののほうが美味しいと言った。
わたしは、他のなにより、母の粕漬けが美味しかった。
同じ味覚を持つ二人の違う感想。
何が違うか。
母は子供達のために粕漬けを漬けた。
わたしは「お母さんの作ったごはん」が食べたかった。
わたしは夫のために料理を作る。
夫はどんなものより、わたしの料理が一番だと言う。
そこにあるのは、やっぱり「愛」でしかない。
作るひとと食べるひとの間で料理を通して愛が循環しているのだ。
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札幌に初めて某ファミレスがオープンしたとき、友人たちと食べに行った。
スピリチュアルな仕事はしてたけど、食に対してはそれほど興味無かった頃。
興味が無いとはいえファミレスが美味しいとも思っていないので、単なる興味、どんなもんか食べに行ってみた。
そのときの衝撃は忘れない。
「…これ、食べ物ですか????」
豊富なメニュー、お手頃な価格、若者には受けそうな食べ物。
でも、あまりにも『スッカラカン』なそのモノは、わたしの身体は全く受け付けなかった。
この空っぽ加減、食材の善し悪し云々だけじゃない。
ファミレスの食材なんてどこもだいたい一緒だ。
食材の空っぽに加えて…これは…作り手の愛情の無さだ。
オープン時にちょっと習っただけで厨房に立っているバイトが「めんどくせぇなぁ」と言いながら料理を作っている光景が眼に浮かんだ。
こんな料理を、周りの若者は「美味しい」と言って食べてるのか?
見た目が満足ならそれで良いのか…?
愕然とした。
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Facebookにこう投稿したのは、不食を始めて10日後のこと。
(不食を始めたことは公言してません)
「食べること」が、わたしの中で気持ち的にも行為的にも少なくなっています。
それでも、いや、だからこそ
身体に入ってくるその少しのものが何なのか、凄く重要に感じます。
味覚がかなり敏感になって来ていて、さきほどのビアホールの料理はほぼ受け付けられませんでした。
最近とくに感じるのは肉がどーのとか、化学調味料がどーのとか、ジャンクがどーのとか、いうより「誰がどういう気持ちで作っているか」、それは素材であれ料理であれ、そこが一番わたしのなかでひっかかるみたいです。
高慢な特別意識で作られた無農薬野菜やオーガニック料理より、慣行野菜で化学調味料が使われていようがスッキリと生きている人が作ったもののほうが、わたしには合う、みたいな。
『高慢な特別意識で作られた無農薬野菜やオーガニック料理…』
無農薬農家としてとても人気がある某氏
わたしはそこの野菜を美味しいと思ったことが無いし、だいたい顔が嫌いだった。
共通の友人も多いのに何故か縁が無かった彼は
実は人間としてはめちゃくちゃだった、という話を最近聞いた。
「あんな人が作ってる野菜を崇めて食べてる人の氣が知れないよ!!売れてる理由はブランド力だけだよ!!」と教えてくれた友人が怒っていた。
人の生き方を批判をするつもりは無いけれど
やっぱり作り手の想いって、必ず作ったものに出る。
それが野菜でも、料理でも。
彼が育てた野菜に「愛」は入っているのだろうか?
他のひとには「安心安全で美味しい野菜♡」なのかもしれないけれど
愛が入っていないものは魂には響かない、から
「不食のわたしには必要無いもの」。
わたしが作る糸や布にだって
わたしの想いが乗る。
作り手の乗せた想いが、受けたひとの何かの糧(栄養や感動、見えない効果でも)となりその喜びがまた作り手に、
そしてその材料を提供してくれている「地球」に還って行く
そんな「愛の循環」が出来たら最高ではないか。
だから、お願い。
作るひとはどうか受け取るひとに与える「愛」を乗せて欲しい。
受け取るひとは作り手が乗せた「愛」をしっかり感じて欲しい。
ただ空腹を満たすだけに適当に食べる、なんて
(自分の)かみさまに失礼なことは
出来るだけ避けて欲しい。
愛が循環する食べ物を選んで欲しい。