いよいよですね
いよいよ来ましたね
変革の時期が。
半年くらい前に見た夢を最近よく思い出すので書き起こしてみます。
夫と愛犬と、いつものゆだねきる旅をしている。
車中泊をしながらの旅のある日ある場所へ到着をした。
そこは小さな村、しっかりしたコミュニティといった感じで
村に入ると代表のような男性が案内をしてくれた。
その男性は所謂ヒッピースタイルで、細身の身体にゆったりとしたアースカラーのコットンシャツと七分丈のパンツ、ひとつにまとめられた長髪と自然にのばされた髭、そして優しい口調。正直、わたし個人はこういうスタイルは好きじゃないのだが、「まぁ、自然派あるあるだわ」と黙って案内していただく。
自然派コミュニティといえば、広い敷地にポツンポツンと小さな家がある、なんだったらテント生活イメージだったのだが、都会と変わらない、家が密接した道路も狭い住宅街。
そこに建っているのは全て木造で、かといってログハウスでもいかにも自分たちで建てました的な掘立小屋でもなく、ひとつひとつがとても個性的な設計のしっかりとした立派な一軒家。
案内の男性以外に他に人影は無い。
「ヒッピー的コミュニティ」と「密接した住宅街」と「個性的かつ立派な家」そして「無人感」の組み合わせがとても妙に感じる。
ユニークな家々を眺めながら歩いていると、広場のような場所に出た。広さは学校の体育館程で、野外ではあるがひとつの面には壁のようなスクリーンがあり、それにむけてパイプ椅子がきちんと並べられている。
説明によると、集会や映画鑑賞などに使うのだとか。
『それにしてもどでかいスクリーンだな、、、、』と裏を覗いてみると、ただのスクリーンかと思いきや裏には何かを遮断しているような、一面の壁。見上げると壁とスクリーンの間に体育館のギャラリーのような細い通路があり、そのむこうには緞帳のような大きなカーテンがひいてあってまるで舞台裏の雰囲気。
「上がってみて良いですよ」とのことなので狭い金属の階段をカンカンと上がってギャラリーへ。カーテンのむこうを見てもいいか尋ねると、一瞬しぶるような表情をして「見てはいけないとは言いませんが、見ないほうが良いと思いますよ」。
ふぅん、なんだろ、と特別何も考えずにカーテンをあけてみる。
その先の世界は、全く異世界だった。
どこまでも延々と広がる
草も木も生えていない、砂埃しか舞っていない薄茶色の荒野。
見下ろすと、そこに筵を引き筵を被って横たわる、人、人、人…。
いったい何万人?何百万人?もっともっと?
端がわからないくらい何キロも先まで、10人ずつくらいが横並びに、さっきのパイプ椅子のようにきれいに等間隔でひとまとめで並んでいる。
年齢も性別も国籍も関係なく、赤ちゃんも青年も老人も黒人も白人もとにかくあらゆるタイプの人間が「まだ死んではいない」状態、立ち上がることも声をあげることも出来ずただ横たわっている。
あまりの光景に「こ、これは映画の撮影!?みんなエキストラなのでは??」と一瞬思うものの、右を見ても左を見ても、前を見ても、とにかく、どこまでも続くこの横たわる人びと、そのあまりの規模にそれが現実であることを納得する。
この、壁とカーテンひとつが区切りになってこんな差があるなんて…
衝撃で唖然としているところで目が覚めた。
起きても衝撃は冷めやらなかったが、これは正夢だろうな、と思った。
これだけ今まで何度も何度も何度も!!!!
なんども!災害(という名の人災)が続き、北海道ではブラックアウトもあり、政治は腐敗し、これからだっていつどこがどうなってもおかしくない危機的状況であるにもかかわらず、人々は喉元過ぎればでまだまだ相変わらずの生活を送っている。
夢と同じシチュエーションが再現されるというよりも、これからを生き抜けるひととそうじゃないひとはハッキリ分かれていくのだろう。
そして、それは、もう仕方のないことなんだ。
そして、いま。
新しいウイルスでパンデミック。
そっちからかー、て感じだけども
来るべくして来た状況。
でもこれはきっかけのひとつであって、
もっともっと、「今までどおりにはいかない」世界になっていくはず。
いよいよ、自分自身が試されるとき。
トップに君臨したつもりで好き勝手にやってきたニンゲン様の化けの皮が剥がれ、隠し通してきた内側の腐った膿はどんどん外に押し出されてくる。
もう嘘はつけないし隠すことも出来ない。
もうニンゲン様の好き勝手には出来ない。
自然は自然であるだけだ。
ウイルスに善も悪もない。ウイルスはウイルスだ。それが人工的につくられようとも。
ニンゲン様の目線で見るから全ては善悪になる。
ニンゲンにとって都合の善いもの
ニンゲンにとって都合の悪いもの
それを理由に本当に、今まで好き勝手やってきた。
科学の力で便利以上に必要の無いものまで作り上げ乱用し
虫も草も木も川も海も空もそして弱いニンゲンも
金のため、自分のため、目先の快楽のため
汚し、殺し、破壊し、強奪し、搾取し、全滅させてきた。
他の命を無視し都合よく扱ってきた。
そうやって生きてきたのだ、わたしたちは。
わたしは違う、なんてどこの誰が言えるのだろう。
そうして生きてきて、循環してきたのだ。
わたしたちがしてきたことが巡って自分の番がやってきたのだ。
わたしたちもその環に入っていないはずないのだから。
今まで通りにはいかない
それだけはハッキリ言える。
外部との接触を絶っている今のわたしのところにさえ
いろんな業界のひとがいろんなことを言っていることが伝わってくる。
ニュースやSNSを細かくチェックしているようなひとなら、もっともっと莫大な情報が入っているのだろう。
絶望するようなネガティブなものから
ポジティブ思考でいれば大丈夫的なスピ系のものから
こうすればこれを食べれば予防出来るデマのような適当なものから
それを知って、どう行動するかは自分次第なのだが
マスクやトイレットペーパーがなくなると聞けば我先にと争いがおこり
あおさや納豆が良いと聞けばスーパーから姿を消し
国の支給額が少ないと言っては怒り
相も変わらず振り回されたり踊らされたり
本当に、「目の前の自分の得」しか考えていない人間というのは成長しないのだなぁと思うし
そういう人たちはもう仕方ない、一生そうなんだろうと思う。
昨日までテキトーな生活を送ってきた人が何日か納豆食ったところで簡単にパンデミックなウイルスに勝てるほど免疫が上がるとでも思ってるのか?
焼け石に水でもやらずにはおられない、といったところなのか。
わたしにとってこのブログは誰にむかって書いているわけでもなく
自分の足跡としての記録のつもり。
でも、(もう使っていないが)facebookは、Twitterは見てる人、特に実際の知人友人が見ていることを意識して使っていた。
「あなたに向けて」、自分の言葉での発言やシェアやリツイートしていた。
2年前のこのブログに、Twitterの自分のつぶやきをまとめていた。
ワタシ的には2017年の春分がノアの方舟の最終便と感じていたようで、それまでにとにかく夫を会社勤めや今の常識で生きることから離れさせるのに懸命だった。「そんなところ」(今や崩壊しようとしている現実世界)で生きていたら、この先は無いからと本気で必死だった。
それまでも夫に向けて、Twitterを見ているひとに向けて、わたしなりに「このままじゃヤバイよー」と発信しつづけてきたつもり。
リアルな友達(の中でも言える相手)には言葉でも伝えてきたつもり。
その人の生活ぶりからして意味がわかんないだろうな、という相手には言っても無駄だし、どーぞそのままの生活しててください、とスルーしてきた。
でも、伝えても伝えなくても
ほとんどのひとは変わらなかった。
意味なんかわかっていないのか、わかったつもりでいるのか。
「わかっちゃいるけどやめられない」
多分、これが大多数の意見だと思う。
みんな、忙しいのだ。
今の生活を守ることに。
変えなくちゃいけない、その生活を変えることが出来ないのだ。
自分と真正面から向き合う時間がないのだ。
一番、なによりも大切にしなくちゃいけない自分を差し置いて
必要のないナニカを守るために必死なのだ。
所詮、わたしが発信していることはみんなにとっては
「特殊なこと」であり「憧れ」であり「あんただから出来ること」であり、みんながそうなるきっかけにはならなかった。
知人も家族もその他大勢も
そのことに気がついて本気で「これからを生き抜く」覚悟と変わる姿勢を持ったひとは、ごくわずかだった。
でも、それで良い。
その結果が、今、出ようとしている。
「今まで通りの生活」を望むひとは、これからどんどん大変になるだろう。
あれが無いと生きていけない
こうじゃないと生活できない
そういうものが多いほど、生きていくのが大変になる。
トイレットペーパーがなければ他のものを使えば良い。
そもそもペーパーが必要ないくらいのキレの良い大便をしたら良いのだ。そういう食生活をすれば良いのだ。
ウオシュレットが必需だの、毎日風呂に入りたいだの、コーヒーとタバコはやめられないだの、他人の握ったおにぎりは食べられないだの、畑の虫が耐えられないだの
まぁ、そういうひとはどうぞがんばっていただきたい。
これから必要なのは
「どんな世界になってもそれに対応出来る精神と身体をつくること」
それだけだ。
今までどおりの当たり前はもう通用しないと覚悟すること。
いつまでも誰かが国が助けてくれるとダダをこねていても
得られるものは「死なない程度のナニカ」でしかない。
といっても
今すぐどうこうじゃないだろうから、当分はこんなカンジでしょうね。。。。
それでいいのだ。
そもそもわたしは誰かを救おうなんて微塵も思っちゃいない。
生き残った有志で新しい世界をつくる。
この数年、日本各地を旅して出会ったひと
そこからまたこの一年で「次だね!」と言い合えたひと
わたしは、そのごくわずかの「気がついて変わった、変わろうとした」ひとたちと新しい旅を続けるんだ。
もちろん「わたしは絶対大丈夫」なわけはなく
明日コロナで肺炎になるかもしれないし明後日には死ぬかもしれない。
でも、基本的にはどーにでも暮らしていく自信はあるし
死ぬときは死ぬという覚悟があるのでどうでもいい。
うちに来るというならウイルスとも仲良くしようじゃないか。
チセが建つまでは死なせてくれないとも思うしね…
瞬間、瞬間が選択です。
パラレルワールドのたくさんの世界では
今この瞬間、何を選ぶかで未来はどんどん変わっていく。
諦めるも良し
悪あがきするも良し
違う未来を創造するも良し。
自分のことを誰か任せにするのはもうやめたら?