あ し あ と 。

生きてます。自由に。

チビ雪と不食

さて

 

ちっちゃい雪ちゃんと不食について。

 

 

 

不食にしよう、と思ったときに当然すぐにチビ雪に相談した。

 

不食、やろうかな」

 

そのときのチビ雪の反応は

 

「やったーーーーーーーーー!!

 もう、無理して食べなくて良いんだーーーーーーーー!!」

 

だった。

 

 

 

そして、思い出した。

 

 

わたしは小さい頃、医者に長生き出来ないだろうと言われていたほど病弱で

食も細かった。

 

所謂「普通の」感覚な母親は

「たくさん食べなさい」

「食べないと丈夫にならない」

「肉を食べないと元気が出ない」

という人で、とにかくわたしに食べさせようとした。

 

わたしは食べたく無かった。

 

でも無理矢理食べさせられた。

 

当然美味しいと思うわけもなく、嫌々仕方なく食べていると

 

「あんたはほんとうに不味そうにごはんを食べる!」といって怒られた。

 

そしてまたごはんを食べるのが嫌になる、という悪循環だった。

 

せっかく作った食事を不味そうに、嫌々食べられるというのは心底悲しいものだというのは今になって良くわかるが

 

わたしは「食べたく無い」、

 

それだけだった。

 

 

「もう食べなくていいんだ…」

 

チビ雪は心底安心したようだった。

 

 

 

そして

 

「食べたく無いなら食べない」

「食べたくなったら食べる」というわたしにとって究極の自由を手に入れて

新しい食生活がスタートした。

 

 

 

スタートして3週間程経ったある休日

 

夫と家でお蕎麦を食べていた。

年末に年越し蕎麦として友人やみんなで食べようと用意していたのだけど

酔っぱらってすっかり忘れていて

「そろそろ食べちゃわないと」と茹でた、はいいが

少食になっていた二人にとってそれは結構な量で

「食べきれるかなぁ」と言いながらすすっていた。

 

最初は美味しく食べていたのだけど、さすがに途中できつくなってきた。

 

今はもちろんそこまで食べる事は無いけど

そのときはまだ「残したらもったいない」という思いがあり…

 

蕎麦猪口に蕎麦をつけた瞬間「…お腹苦しい!」と自分でも思ったけど

もうつゆにつけてしまったし、この一口だけ食べよう、と口に持って行こうとしたとき

 

 

チビ雪大激怒。

 

 

「お腹が苦しいってわかってるのにどうした食べるの!?

 からだがもういっぱい、って言ってるんだから、無理して食べるな!!!!!!」

 

 

ひゃ〜〜〜〜〜( ;´Д`)

 

すすすすすすすいません!!

 

 

素直に箸を置くわたし。

 

まだまだアタマで食べていたわたし。

 

カラダの声を無視していたわたし。

 

この一件(チビ雪大激怒)以来、しっかり自分のカラダに聞きながら食べるようになった。

 

満腹じゃなくて満足、

 

身体に入れて良い量と

チビ雪が満足する質をしっかり見極めて食べる。

 

チビ雪は、本当に美味しいと思うものを食べると、

一口で「うわぁ〜これ美味しいねぇ〜幸せだねぇ〜もうこれだけでいいねぇ〜」と言うのでもうそれ以上は食べない。

 

おざなりに、適当なモノで空腹を満たす、なんてことは許されないので

常にチビ雪に「食べるなら何が良い?」と聞く事にしている。

 

チビ雪は不食に関して、たくさんのアドバイスをくれる。

 

食べないと感覚が繊細になるので、チビ雪の声も良く聞こえるようになった。

 

不食を目指す生活を始めてから、チビ雪とよりいっそう仲良くなった気がする。

 

 

それはそれは、好循環なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちっちゃい雪ちゃん

「ちっちゃい雪ちゃん」

 

これはわたしのブログの中で今後もちょくちょく出て来るとても大切なワードなので、

一度説明しておこうかな。

 

※スピリチュアルなお話が苦手なかたには理解不能かもしれないので

その場合はスルーしてください

 

※ この記事は2017年1月の内容です。「ちっちゃい雪ちゃん」は常に成長しており呼称も変化しております。

 

※ちっちゃい雪ちゃんに出会う話も重要だったりするので、ぜひこちらもご一読ください。

 

yukikoashiato.hatenablog.com

 

 

 

ちっちゃい雪ちゃん(以下「チビ雪」に略)とは

わたしの

 

(ホ・オポノポノでいう)ウニヒピリ

 

内在神

潜在意識

宇宙

真我

本質

 

呼び方はなんでも良いのだけど

 

一番しっくりくるのは…

 

「ほんとうの自分」、かな。

 

全てを知っている、わたしの中の神様

ほんとうのわたし。

 

神様は、外には居ない。

いつも、いつでもわたしの中にいる。

 

 

 

 

 わたしのおしごとはこの神様であるチビ雪を満足させること。

 

チビ雪がしあわせなら、わたしもしあわせ。

チビ雪が満足なら、わたしも満足。

だって、わたしとチビ雪はおなじものだから。

 

お遍路の空海さんと同じ

同じ人生を、一緒に歩んでいる同行者だから。

 

 

チビ雪はわたしにいろんなことを教えてくれる。

指示もするし、

ダメ出しもする。

 

からといって、言うなりになっているわけではなく

四六時中、全てにチビ雪が口出しするわけではなく。

 

 

 

しっかりと一緒に人生を歩んでいるとき

主導権はわたし。

 

何かあったとき、迷ったとき

当然、同行者として「どーする?」「どうしよう?」と聞く事はするし

(誰かと一緒に旅をしている、と想像してみて)

わたしが聞かないで違うほうに行けば「やだ!」と言ってくれる。

 

チビ雪のほうから「あれしよう」「こっち行こう」と誘ってくれることもある。

 

聞いても何も答えてくれないときもあるし

間違ってても教えてくれないときもある。

それは『結局何を選んでも間違いなど無い』ということを教えてくれるとき。

 

なんだか禅問答みたいになってきたけれども…

 

チビ雪の「ちがう!」は漫才におけるツッコミみたいなもんで

わたしの意見や行動(ボケ)に「そこか〜い!」「そっちか〜い!」な感じ。

AじゃなくてBだ、という選択の間違い、じゃない。

 

だから、基本自由。

 

アタマ(思考)で自分でどうにかしようとして

チビ雪の声に聞く耳持たず、無視して痛い目にあっても「ほら〜だからwwww」。

 

同じ人生の同行者として

楽しく仲良く

ボケたりツッコんだり

 暮らしてる。

 

 

ーーーーーーーーーーーー

 

 

 

チビ雪は雪子の雪ちゃんだからといって、わたしにしかいないわけじゃない。

 

すべての人の中に「ほんとうの自分」「自分の中の神様」はいて

 

ほとんどの人は「気がついてない」

あるいは気がついているのに「完全に無視している」だけ。

 

アタマで生きているひとには、多分、声は届かない。

アタマの中はいつでも終わった過去や来ていない未来や

どうでもいいことを考えるのに精一杯で

かみさまの声が入り込む余地がない。

 

いつでもかみさまは叫んでいるのに

あなたは無視している。

あなたのかみさまは、魂は、いつ、どうしたらいいか全てわかっている。

なのに、それを信じず無視して

自分のアタマで考え行動して

うまくいっては喜び、失敗しては悲しんだり怒ったりしている。

 

たまに声が届いて思い通りになったら

「勘がひらめいた」とか「インスピレーションがおりてきた」とか言って

自分の考えたことが正解だったと思い込んでる。

 

かわいそうなかみさま。

 

みんな、気がついてあげて。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

話がそれてしまった。

 

 

 

不食生活でもチビ雪は大活躍。

 

っていうか、

 

チビ雪がいなかったら、多分不可能だっただろうと思う。

 

チビ雪が応援してくれて、いろんな応用を教えてくれた。

 

本なんか必要無いくらい、あらゆる知識を送り込んでくれた。

だから、

何も知らなくても

チビ雪が「出来るよ」って言ったから、実践出来た。

 

不食に関してのチビ雪の活躍は、また次回に。

 

 

 

身体のメンテナンス

不食を始める直前に行った温熱整体の治療院。

 

2ヶ月程苦しんでいた腰痛に見かねて友人が紹介してくれた、自宅でひっそりとやっているという先生。

誰にでも身体を触られるのが大嫌いなわたしは飛び込みでそういう店には行かないのだけど

気の合う友人からの紹介だったので、その先生もフィーリングはバッチリ

安心して身体を任せる事が出来た。

治療も気持ち良く、スッキリと帰って来たのだけど

腰痛は「少しマシ」になったくらいで、まだまだ痛い…

 

そして

その直後不食の本を読んだのか、それをきっかけにネットで調べたときに読んだのかもう忘れたけれど、どこかで見た

「20年来の腰痛が治った」との一文。

 

本を読んでスイッチは入っていたけど

もう、それで俄然ヤル気…

というより、藁をもすがる思いだった、そのときは。

 

だって2ヶ月、何をしたって治らなかったんだもの。

元気はあるものの、ただただ腰が痛くて自力で立ち上がれない毎日。

病院には行かなかったけれど(どうせいつものように鎮痛湿布出されて終わりだ)

腰痛体操やら足湯やらマッサージやら

調べたり教えてもらえるものはなんでも試した…けど…

一向に回復せず(/ _ ; )

 

そこで「20年来の腰痛が不食で完治!」である。

 

頼むよ…食べないで治るならいくらでもやるよ、不食

 

というわけで

やれる!という確信と共に

祈りにも似た思いで不食を始めたというわけ。

 

長い事苦しんだ原因不明の腰痛は

単に不食への誘いだったのかと思わずにいられない。

 

全てに意味はある…

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

で、本日

前述の治療院に、一ヶ月半ぶりに行って来た。

 

行ったのは治療というより、先生とある品のやり取りをする為で

ついでだからメンテナンスして〜という感じで行って来たのだけど

 

これがまたひっじょーーーーーーに面白かったわけ!!!!!!

 

足湯に入りながら「腰の調子はどう?」「前に比べたら全く痛み無しです!」的な雑談をして、施術ベッドへ。

 

身体に触るなり

 

「あれ〜?」

 

前回気になったという腰椎何番だか(忘れた)と胸椎何番(同じく)をチェック、

「うん、良くなってる」

 

「っていうかさーーーーーーー!!!!」

 

「なに!?なんか、身体が全然変わってるよ?別の人の身体触ってるみたい!」

 

「なに、この筋肉のしなやかさ?え、前回来たのいつだっけ?」

 

とカルテをチェック、

 

「一ヶ月半で身体ってこんなに変わる?」

 

カルテに記入してある、先生の前回の施術を元に

「ここは?」「ここはどう?」「前回酷かったんだよ」

「うーん、それほど、ですねー」

「だよね!?全然筋肉違うもん!」

 

というやり取りがだいぶ続き、

あまりにも先生が驚いている&不思議がっているので

 

そして

 

「雪子さんは食事に気を使ってるほうよね?」

「肉はあまり食べないわよね?」

 

という誘導(ではないのだろうが)があり、

 

ついに告白。

 

「いや、、、実は、、、誰にも言ってないんですけど、「不食」はじめたんですよね…」

 

変な奴だと思われるだろうか…

 

「ダメよ!ちゃんと食べなくちゃ!」なんて怒られるだろうか…

 

 

と思うヒマも無く

 

「あーーーーーーーーーーーーー!!!!

 そうなんだ、納得、納得!!!!!」

 

非常に理解のある先生で、その後も

 

「身体ってこんなに変化するのねぇ」「すごいなー」

「人体実験見せてくれてありがとう」

 

と非常におもしろがってくれてw

 

しかも瞬時に判断して、次のアドバイスもしてくれた。

 

「うん、肉体のいろんなところにまだこびりついている不純物みたいのが、今出て来てるね。季節的にもこれからデトックスの時期だから、肝、腎、副腎あたりを刺激して、白湯をいっぱい飲んで、尿としてどんどん出して行くともっとスッキリするよ」

 

足裏のツボを教えてくれたんだけれど、いてーのなんのって。

でも確かにスッキリする!

 

そして見えない部分もとても敏感な先生なので

「肉体の不純物もだけど、例えば感情とか記憶とか、そういうものも出て来るから、そちらも同時にデトックスだね」。

 

な、なるほど、、、、、

 

施術が終わって、二人で肉体の神秘についてしばらく語る。

 

「からだって、正直なんですねぇ…」

とわたしがつぶやくと

テーブルの上にあったお花を指差し

「汚れてる花瓶から水を抜いて磨けばすぐ綺麗になる。

身体は、それだけのこと。三次元的にこうしたらこうなる、それだけだからね〜」

 

この例えは言い得て妙だなと思った。

 

今までは食事をすることで身体を常に汚していたのだ。

水(食事)を入れっぱなしの花瓶(身体)をいくら磨いたって花瓶の中は綺麗にならない。

水を抜くこと。それが大事なのだ。

 

自分自身では身体の変化に実感があったけど、こうして客観的に「変わったよ」と断言されると実証されたようで素直に嬉しい。

 

そして「不食は身体に良い」「不食は身体を変える」を自分の身体で実証出来たわけで、これがなによりも嬉しい。

 

良くなった、というより変わっちゃった、だもんなぁ。

食べないだけで。

 

 

そして正直な身体に対してなんと面倒なアタマ(思考)ちゃん。

 

不食生活を始めてから、思考もクリアになっている実感はあるけれど

まだまだ、いろんな思考、感情で身体を縛り付けているんだなぁ…

 

こちらも同時にデトックスして

もっとクリアに!

もっと正直に!

もっとワガママに!

もっと自由に!

 

生きて行こう。

 

つくづく思う。

 

不食は「自由な生き方」なんだ。

 

 

 

 

 

 

 

不食ハイ

不食ハイ』なるものがあるらしい。

 

不食は気持ち良くてやめられない」

不食界では有名な方々が口をそろえて言っていた。

 

不食が気持ちE?

 

自分が始めるまで、まったく理解できなかった。

 

通常、空腹=苦痛

食べなければ辛くなる、というのが当たり前。

 

不食でハイ…

 

苦痛を超越するとナチュラルハイになる、

 

ランナーズハイとか

不眠ハイとか

 

そんな感じだろーか???

 

不食前は運動は全く興味無しなので)走らないし

(デフォルトで不眠気味ではあるが眠くなったら)絶対寝るし

そもそも苦痛を感じることは絶対的に避けて生きているので

わたしには全くその感じがわからない。

 

 

 

 

 

ある日

 

 

それは突然やって来た。

 

 

 

 

なんでもない、日常。

 

夕方の、空腹時。

 

肚の底からなにか熱いものがこみ上げて来て

気分が高揚してきた。

 

「うわー!!!!わたし、めっちゃ幸せじゃん!!!!」

「うわー!!!!わたしって完璧じゃん!!!!」

「わたし、今、なんでも出来るわ!!!!」

「わたし、今、無敵!!!!」

 

アゲアゲである。

 

一方

「あ、これが『不食ハイ』ってやつかーw

 なんか、いけないおクスリやってアガってる奴みたいじゃねーwww」

的な、冷静な自分もいて。

 

いずれにしても、その肚からあがってきたエネルギーは非常に気持が良く

 

お酒によって

アタマもカラダもゆるゆるで気持いい〜

とも違う

 

アタマすっきりなままヤル気がみなぎる感じは

 

ずっとこの状態でいられるんだったら、それはやめられないなぁと思った次第。

 

ただ、ずっとこの状態ではいられない、

というか

 

不食生活を始めてから通常の精神状態はその前に比べてかなり穏やか、かつ繊細になっていたので、それはそれで心地良いし

自分のなかで「ずっとこう(ハイ)でもどうだろう」という思いもあり

 

通常穏やか、たまにハイ、というのがベストかなーと。

 

 

 

ところで

この下から上がる感じ

クンダリーニの上昇とはまた別なのだろーか?

それも経験が無いので、よくわからない。

 

そもそもこの経験が不食から来るものなのかも確信は無いわけだけど

 

不食ハイ」

これは大変気持ち良いです。

 

 

 

 

 

一食、微食、不食

本によると、不食への道は段階を踏んだ方が良いらしい。

 

もちろんいきなり「まったく食べない」を実践出来るひともいるのだろうけど、

無理は禁物。

 

まずは普段の食事の量を減らし、一日三食しっかり食べているなら二食へ、

そして一日一食にし、次に微食

(微食というのは「食事」ではなく、例えば青汁とか野菜ジュースとか果物とか、少々腹に入れる程度、微量の食のこと)

そしてゆくゆくは不食へ、とおすすめしてある。

 

わたし自身、集中力はあるけど持続力が無いタイプなので

いきなり実践は可能だけど、きっとそれだと長続きしない気がする。

 

ダイエットにおけるリバウンドと同じで

無理をするほど反動が大きいだろうから

 

まずは一日一食にして身体を慣らす

数ヶ月で慣れていけるかな、と思ったら微食にする

三年後くらいには不食になってるといいなぁ〜

 

というゆるい設定にした。

 

元々朝は食べない派だったので、二食から一食にするのはわりと簡単。

 

不食を始める前は

11時〜13時くらいに割としっかりめの一食、

18時〜19時くらいに軽く一食、

そして夫が帰宅後、晩酌に付き合いながら軽くつまみ、酒を呑む

という感じ。

 

それを昼を抜いて夕方に一食に置き換えてみる。

 

まぁ、もちろん普通にお腹は空くけど

耐えられないほどでも無く

それもやっぱり慣れで

その空腹が当たり前になり、気持ち良くなってくる。

 

食べたら食べたで、美味しい嬉しいと満足感はあるものの

食べ過ぎると一気に身体が重ーく感じる。

 

お腹いっぱい、は厳禁だと実感。

 

少食かつ腹八分。

 

なので、必然的に「心と身体が満足するものを少しだけ」に移行していった。

食事も、お酒も。

 

この「満足感」というのはかなり重要で

何で満足するか、というのはさておき

「うわー美味しい!もう、これで充分!!」と思えると

(このときの魂の震え、感動を味わうことも重要)

もうそれ以上は必要無かったりする。

 

これはいまのところ毎回毎回感じるわけでは無いけど

 

たまにこの魂の震え、感動を味わえる時があって

その満足感は、それだけで充分一食に値する。

 

「もうこれ以上、食べなくて(呑まなくて)いいよぉ〜♪」って

身体がハッピーに教えてくれる。

 

 

満腹じゃなくて、満足。

 

(ん???なぜ足なのだろう…)

 

ただただ空腹を満たす、欲を満たすためだけに食べるのではなく

(殆どの人の食事とはこれだろう)

 

心が満たされる、「あぁ、幸せ」と思える食事。

 

今までは、お酒は特に量を呑むから質を抑えてたところはあるんだけど

この満足感を最重要にすると、少々値が張るお酒を選んでもぐっと量は減る。

カラダの為にも金銭面でもそれで良いではないか!

 

さて、その「満足感」を得る

そのためには自分の本当の声、カラダの声が聞けるかどうか、というのも大切なのだけど…

それはまた別の話なので

別の機会に。

 

 

 

 

 

食べてもいいし、食べなくてもいい。

不食、といっても「食べなくなること」が目標じゃない。

 

食べなくても良い、意識と身体をつくること。

 

食べたっていい、食べたいのなら。

でも、食べないほうが調子がいいから、食べない。

そんな感じ。

 

この自由さがなんといってもわたしにぴったりなのだ。

 

食べてもいい

食べなくてもいい

どっちでもいい

どーでもいい

なにしてもいい…

 

いや、そんななげやりではないが(笑

 

今(不食を始めて一ヶ月)はまだ「食べないことに身体を慣らす」段階なので、意識的に「食べないように」はしているけれど、我慢して辛いー!ってことは全く無い。

食べたいなーと思ったら、肉だろうがジャンクだろうが何でも食べるし。

 

今振り返ると、不食を始める前は無理して食べてたし、アタマで(思考、嗜好、記憶)で食べてた。

本当に身体が求めて食べていることなんて、殆ど無かったのではないかしら。

 

今は身体の声をずいぶん聞けるようになった。

不食は意識を繊細にさせる。

 

不食で餓死なんて人が(外国で)いたみたいだけど、

きっと恐れを持ったまま「食べない」を選択したから。

「食べちゃいけないのよっ!」ってアタマガチガチで、身体は納得していなかったんだろう。

 

「食べ物を身体にとりいれなくても、生きて行ける」

それを心底、腑に落としてないと身体はどんどん衰弱する。

もちろん、食べ物以外をとりいれる方法も身につけなければならないし。

飢餓で苦しんでいる子供達だって、そこに気がついて実践できたら、餓死はしないはず。

 

不食を実践出来るのは「意識」「決意」それだけだと思う。

 

わたしにとって、不食のメリットは書ききれないほどある(のでまた別の記事で)

が、デメリットはほぼ無い。

 

(あるとしたら痩せすぎると着物が似合わないから、ほどほどにして欲しい)

 

 

 

だからといって、他の人にも「食べるのやめなよ〜」などと言う気もさらさらない。

 

何度も言うけど本人が心底腑に落とさないと出来ないから。

 

不食は、

 

ダイエットとも断食とも絶食とも違う。

 

期間も、目標も無い。

我慢も、終了も無い。

 

「永遠に食べなくてもいい」と自分で決める

常識の呪縛から解放された、自由な『生き方』なのだ。

 

 

不食生活スタート。

ついに、スイッチが入ってしまいました。

 

なにがってタイトルどおり「不食」の。

 

10年位前に知った食べないひとのこと。

当時は「絶対有り得ない!!!!!」だった。

そういうヒトもいるんだなぁ、すごいなぁ。と。

まったく別次元のヒトだなぁ、と。

 

 

そして3年位前にまた「不食」という言葉に再会したときに

なんとなく「あ、これわたしやるな…」って思った

 

けど

 

わたしは違うべ、って言い聞かせた。

 

だって飲食店やってたし

「食べる物は大事!!」と大きな声で力説してたし

自分自身食べること大好き♡だから

いつも何食べるか考えてたし

お腹すいたらめっちゃ機嫌悪くなるから

出かけるときは何かしら食べ物携帯してたし

 

「いやいやいやいや!わたしが不食(食べない)なんて無理無理無理!!」って

アタマで拒否した。

 

 当時、友達にネタとして不食の話をしたときに

 

「ねー、どーしよーわたしも『プラーナで生きる』とか言い出したらーwwwwww」

「やめてーw」

「ねー、どーするー?わたしが北島マヤみたいにキャベツ切ったときに『痛い!』って言い出したらー」

「有り得ないしwwwwwwww」

 

てな会話もしてたのです。(結構ハッキリ覚えてる)

 

で、今。

 

 

友よ、現実になってしまったよ。

あれは宣言だったのかもしれないな。

 

 

 

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去年の12月に

何気に図書館で借りた不食の本。

 

いつも図書館では限度ギリギリの本を借りる。

 

他の染色や織物や今、一番知りたいことの本と一緒に

この本を借りたんだけど、何故この本を一緒に借りたのか未だにわからない。

何故借りたんだっけ?

 

 

(ちっちゃい雪ちゃんからの指示だったんだろうけど…)

 

 

 

だけど

 

家に着いて染色の本よりも先にそれを一気に読んだ。

 

帰って来て一気に読んで決まった。

 

 

 

不食

 

 

「やろ」

 

スイッチオン。

 

「いやいやいやいや」だったスイッチが、一瞬にして、オン。

 

だって、出来る

っていうか

わたしはやる

ってわかっちゃったから。

 

 

嫌だとか、無理とか、出来ないとか、有り得ないとか、

 

そういうの無しで

 

「やろ」

 

って思っちゃったから。

 

 

だから、やることにしました。